カルマ Karma (パーリ語でカンマ Kamma)とは、わたしたちの身体、考え、言葉 をとおしてあらわす行為を意味する。善いカルマを善業、悪いカルマを悪業という。 身体がするのは「身」、言葉がするのは「口」、考えがするのは「意(思、心)」のカルマとなる。
時間という観点から、カルマは過去と現在の二種類に分けられる。過去世のカルマ のうち、現在のあり方に直接むすびつく行為が、現在の生存状態を決める。間接的な 原因となった過去の行為は、補助的な役割は果たすが、現在の生に直結はしない。したがって、現在のカルマはそのまま現在の結果・報いを生み、それらに続いて未来の 結果をも生なむ。
「マッジマ・ニカーヤ(中部経典)」の第五七経「クックラバッティカ・スッタ(犬行者経/動物の習性をまねる行者)」には、動物をまねれば救われると信じる人々が 出てくる。信条と行動は、しばしば別のものとなる。信条が行動に影響をおよぼすことがある一方、信条と自分の行動がまったくかけ離れてしまう人もいる。しかしブッダ は、あらゆる意図的な行為は、それが考えであれ言葉であれ身体の表現であれ、すべてカルマであり、遅かれ早かれ行為をした者に報いをもたらす、とこの経典で述べ ている。ブッダは心や考えにいちばんの重きを置いていた。
ブッダは言う。「Chetanabam, Vikhave. Kammans vadiniおお、比丘たちよ 考えとは大いなるカルマである」この第五七経で、ブッダはカルマ(業)を四つのグ ループに分けている。
1、苦を報いる黒い業
2.楽を報いる白い業
3、斑(苦と楽)を報いる黒白業
4、苦も楽も報いない非黒非白の業
黒い(悪い)カルマは白い(幸せな)結果はもたらさないし、白いカルマは暗い(悲惨な)結果はもたらさない。ある行為にさまざまな動機がからんでいて、善悪が入り混じっている場合、カルマも混合することがある。ほかの三つに惹きつけられたり興味を持ったりするのをやめるならば、カルマの領域を超えて行くことができる。 悲惨な果実をむすぶ「黒いカルマ」とは何だろう? たとえば、ある者は苦痛にむすびつく身体のカルマを生み、ある者は苦痛にむすびつく言葉のカルマを生み、ある 者は苦痛にむすびつく心のカルマを生む。そうすると、彼は苦痛の世界に転生する。
そうなると、苦痛が彼に触れる。苦痛に触られると、彼は地獄に存在しているときのように激しい苦しみにさいなまれる。つまり、彼は自分が行っているカルマに応じたところに、ふたたび現れる。姿を現せば、接触がおこる。したがって、存在とは、 自分自身のカルマの所産といえるだろう。これを悲惨な果報をもたらす黒いカルマという。
では、幸福な果実をむすぶ「白いカルマ」とは何だろう?たとえば、ある者はぎ 痛にむすびつかない身体のカルマを生み、ある者は苦痛にむすびつかない言 マを生み、ある者は否緒にむすびつかない心のカルマを生む。そうすると、彼は苦痛 のない世界に転生する。そうなると、苦痛でないものが彼に触れる。そういったもの に触れられると、彼は、清らかな悦びがあまねく行き渡っている神々、天のよう に無上の悦楽に包まれる。このように、存在の転生は存在による。つまり、 が行っているかをマに応じたところに、ふたたび現れる。姿を現わせば、接触がおこ る。したがって、存在とは、自分自身のカルマの所産といえるだろう。これを悦楽の
業種をもたらす白いかルマという。
では、恋と指が入りじった発実をむすぶ「黒白のカルマ」とは何だろう。 たとえば、あるまが、かたやきにむすびつき、かたや苦痛にむすびつかない身体の
カルマ(あるいは言葉のカルマか心のカルマ)を両方生んだとする。そうすると、後 は苦痛と苦痛でないものが混在する世界に転生する。そうなると、苦痛と苦痛でな ものが両方とも彼に触れる。そういったものに触れられると、彼は人間とか、ある種 の神々とか、ある種の亡者のように、悦楽と苦痛が混在した感情を味わう。つまり、 彼は自分が行っているカルマに応じたところに、ふたたび現れる。姿を現せば、接触 がおこる。したがって、存在とは、自分自身のカルマの所産といえるだろう。これを 斑(苦と楽)の果報をもたらす黒白のカルマという。
では、苦楽の果実をむすばず、カルマの消滅にいたる「非黒井白のカルマ」とは何 だろう? これまでの三つのカルマに関して、苦痛の果報をもたらす黒いカルマを退 ける意思、悦楽の果報をもたらす白いカルマを退ける意思、斑(苦と楽)の果報をも たらす黒白のカルマを退ける意思である。これを苦でも楽でもない果報をもたらす非黒井白のカルマという。 「はっきりとした智慧で自分自身を悟ったあとに、わたしがこれら四種類のカルマを
宣言したのである」
ブッダゴーサの縁起の語義駅「ヴィスッディ・マッガ(清道論)」によれば、カ
ルマは一二種に分けられる。そのうち、最初の四種は、
1.順現業
2.順次業(順生業)
3.既有業である。
七種すべての識(心、チッタ)における善悪のカルマは、順現業である。このカル マの報いは、この世で現れる。この形式ではなく、報いが現れない種類のカルマは、 既有業という。第七番目の速行心から生まれるのは、順次業で、このカルマの報いは 次に再生したときに現れる。その二つのあいだの五つの速行心は、願後業である。こ のカルマの報いはいつとは決まっておらず、再生を続けているうちに機会があったと きに現れる。世界がはじまったときに既有業はなかった。
次の四種のカルマは以下のとおりである。
1.重大な業(重業) Garu Kamma
2.習慣化した業 (久習業) Achinna Kamma
3.死に近い時の業(臨終業または近業) Asanna Kamma
4.蓄積された業 (己作業) Katata Kamma
重業、すなわち重大なカルマとは、「きわめて重要な道徳に関するカルマ」という 意味で、再生状態を決定づけるものとなる。悪の側では、五逆罪を犯したような場合
である。善の側では、禅定(仏教の瞑想、サンスクリット語ではディヤーナ、パー
リ語ではジャーナ)に入って、死ぬまでそれを続けることなどである。死後、その人
は、到達した禅定の段階に応じた世界に生まれ変わる。こうした重みをもつカルマを
重業という。善悪のいずれであっても、重業は最初に報いをもたらす訳注五逆と
は、テーラヴァーダでは「父殺し、母殺し、阿羅漢殺し、仏身を傷つける、教団の和
合を破る」、マハーヤーナでは「仏塔・経典の破壊や三宝の窃盗、仏教の教えを謗る、
出家者の修行を妨げる、小乗の五逆のいずれかを破る、業報を無視して十悪の罪を犯
す」があたる」。
習慣化したカルマ――久習業
このカルマは習慣的にされる行為である。
( 例)肉屋のチュンダ
ブッダの時代に、チュンダという名前の残酷で心の冷たい肉屋がおり、豚をむごい 方法で処理していた。チュンダは長年この仕事をしていて、一度たりとも立派な方法 をしたことがなかった。彼が死ぬ前、チュンダは激しい苦痛にみまわれ、数日間豚のように泣き叫んだ。死後、チュンダは地獄に再生した。
死に近い時期のカルマ臨終業(近業)
死の床で思い出されるすなわち死の直前に蘇ってきたり行われたりするこの強
力なカルマは、死に近いカルマ、臨終業と呼ばれる。 たとえば、悪い性格の人が死ぬ間際に良い行為を思い出したとしたら、その人は幸 いざを思いしたとした 運な生まれ変わりをする可能性がある。また、その反対もありうる。
蓄積されたカルマ己作業
重大な業も、臨終業も、習慣化した葉もない場合、蓄積されたカルマが再生に大き くかかわってくる。このカルマには、無限の過去から現在までにやってきたすべての 行為が含まれる。次に例をあげよう。
(例) マッリカー王妃
マッリカー王妃は臨終のときに悪いカルマを思い出したため、七日のあいだ阿鼻
(無限地獄)に落ちた。その悪いカルマは王妃の善いカルマを帳消しにしてしまって、正反対の地獄に落ちるという報いが現れたのである。
別の言いかたをすれば、どれほど善い重業も、臨終業も、習慣化した業も、阿鼻地 獄に落ちることを防げなかったということだ。しかしマッリカー王妃が生前に行った 善いカルマが反対に働いて、兜率天(トゥシタ)に再生することができた。
同様に、ほかにも四つのカルマがある。
生産的なカルマ今生業、ジャナカ・カルマ
このカルマは、再生したもの・再生する過程・再生したあとの人生に「心と素」を 生じさせる意思で、善悪の両方があると考えられる。 例をあげてみよう。受精のとき、赤ん坊に肉体、感覚機能、性などにかかわる再生 を生みだすのが、この生産的なカルマである。
補助的なカルマ支持業、ウバスタンバカ・カル
ウパスタンバカ・カルマは、どのような結果も生みださないが、カルマを生みだす のを助けたり手伝ったりするものである。
正反対の地獄に落ちるという報いが現れたのである。
別の言いかたをすれば、どれほど善い重業も、臨終業も、習慣化した業も、阿鼻地 獄に落ちることを防げなかったということだ。しかしマッリカー王妃が生前に行った 善いカルマが反対に働いて、兜率天(トゥシタ)に再生することができた。
同様に、ほかにも四つのカルマがある。
生産的なカルマ今生業、ジャナカ・カルマ
このカルマは、再生したもの・再生する過程・再生したあとの人生に「心と素」を 生じさせる意思で、善悪の両方があると考えられる。 例をあげてみよう。受精のとき、赤ん坊に肉体、感覚機能、性などにかかわる再生 を生みだすのが、この生産的なカルマである。
補助的なカルマ支持業、ウバスタンバカ・カル
ウパスタンバカ・カルマは、どのような結果も生みださないが、カルマを生みだす のを助けたり手伝ったりするものである。
たとえば、誰かが人間に生まれ変わった場合、寿命の長さや健康状態などに影響す るのが、このカルマである。
阻止的なカルマ 妨害業、ウパピーラカ・カルマ
そのほかのカルマによって生じる幸福や苦痛を妨げたり、遅らせたりするカルマである。
たとえば、このカルマが働くと、天界に再生しようとするカルマなのに、下位の世 界に再生してしまったりする。
破壊的なカルマ殺害業、ウバガータカ・カルマ ウパガータカ・カルマには善悪両方があるが、そのほかのカルマの結果を妨げ、報 いを消し去ってしまう。
たとえば、人間に生まれた誰かが、自分の生産的なカルマによって定められた寿命 があったのにもかかわらず、破壊的なカルマの出現のせいで早死にしたりする。
【マッジマ・ニカーヤ(中部経典)」の第七三経「マハーヴァッチャゴッタ・スッタ(大ヴァッチャ経/ヴァッチャ族の遍歴行者に善と不善を説く)」に、善悪のカルマに ついて述べられた箇所がある。食欲は悪であり、食らないことは善である。怒り ちゅうとう は悪であり、怒らないことは善である。邪見(愚痴)は悪であり、迷わないこと は善である。したがって、これら三つのカルマは善であり、ほかの三つのカルマは悪 である。同様に、殺生は悪であり、殺さないことは善である。与えられていないもの を取ることは盗み(倫盗)で悪であり、殺生を慎み、盗みを離れることは善である。 邪淫は悪であり、邪淫にふけらないことは善である。嘘をつくこと(妄語)は悪であ り、嘘をつかないことは善である。二枚舌を使うこと(両舌)は悪であり、それをし
ないことは育である。悪口は悪であり、それをしないことは善である。きれいごと (綺語)を言うのは悪であり、それをしないことは善である。貪ること、誤った考え をいだくことも悪であり、それらをしないことは善である。したがって、一〇種の悪 いカルマと、一〇種の善いカルマがある。
どの人も自分自身の報いを受ける。わたしたちはみんな、長い寿命、健康、美しさ、 力、富、良い血筋、賢さを求める。少なくとも、これのうちのいくつかを欲しがるも のではなかろうか。こうした事柄は偶然に現れたりはしない。誰かが健康であること
も、愚かであることも、単なる運ではない。たとえはっきりと自覚できないにしろ、人間のあらゆる不平等、あらゆる存在状態は、その人自身が積み上げてきたカルマの ためなのだ。だから、短命、病気がち、醜い、地位が低い、貧しい、生まれが悪い、 愚かであったとしても、あるいはその状態が気に入らなかったとしても、しかたない のだとあきらめる必要はない。いま正しいカルマ(行為)をしていけば、同じ来世が
めぐってきたりはしないのである。
「マッジマ・ニカーヤ」の第一三五経「チューラ・カルマ・ヴィヴァンガ・スッタ (業の小分析/賜婚経)」で、ブッダは次のように述べている。「存在はカルマを担う ものであり、継承するものである。また、カルマを自分自身のうちに有し、カルマに 縛られ、カルマをよりどころとする。存在を下位と上位に分けるのがカルマである」 同じく「マッジマ・ニカーヤ」の第一三六経「マハーカンマ・ヴィパンガ・スッタ (業の大分析/大業分別経)」では、ブッダはカルマを四つに大別し、人間を分類した。
・悪事を働く者で地獄へ行く者(あるいはそのほかの下位の状態に再生する者) ・
悪事を 働く者で天界へ行く者
・舎人で天界へ行く
・善人で地獄へ行く者(あるいはそのほかの下位の状態に再生する者)
それからブッダは、真理の中途半端な理解からどのようにまちがった考えが生まれ てくるかを示す。
1、清浄であらゆるものを見通す「天眼」で、悪事を働いた者が地獄で苦しむのを 見る。
2.その光景が、これまでに修得した倫理観を裏づける。
3. そこで彼は言う。「悪事を働く者は必ず地獄へ行く」。そして、
4、独断的な考えは強められて確固としたものになり、 こしたものになり、彼は(あらゆる年齢、あら
ゆる場所の独断主義者も) 「これのみが真実で、ほかのものはまちがいだ」と 宣言するようになる。四人の「ひと」がこれと同じプロセスで考えたあと、ブ ッダはかぎられた経験にもとづくこれらの考えを分析し、どの部分が正しいか (実験と経験で確かめられるもの)、どの部分が正しくない独断的な見解かを指
摘する。
最後にブッダは、たとえば「悪事を働く者は地獄へ行く」というような。一定不変
と説明する。 の概念を示した最初の分類法は単純すぎるのであって、人間の心は複雑だからひとつ の人生のあいだだけでも多種多様な行為(カルマ)をするものであり、死の直前のか ルマが最後の瞬間に影響をおよぼして、それがそのまま次の来世の基盤となるのだ、
同様に、「マッジマ・ニカーヤ」の第五 の第五一経「カンダラカ・スッタ(カンダラカ /外教の修行者と仏教の修行者)」でも、人間は四種類に分けられている。
1、自分自身を苦しめ、自分自身を苦しめる行為にふける者
2、他人を苦しめ、他人を苦しめる行為にふける者
3、自分自身を苦しめ、そして他人も苦しめる者
4、自分も他人も苦しめない者
めぐるカルマのために、生あるものがさまざまな生命と世界を、さまざまな状態で ほろいさまよっていくのは明らかだ。 明らかだ。あるカルマは、欲求をかなえる決意のもとに意 識的に行われる。また別のカルマは、無意識下で無目的に行われる。これら二つのカ
マのうち、工夫と決意をもって行われるものが、再生をもたらすカルマとなる。善い行為も、悪い行為も、欲望(渇愛、トリシュナー)が根底になければ、新たなむす びつき(プラティサンディ)は生まれない。欲望由来のカルマが、再生の原因となり、 欲望がカルマの原因となる。人生に対する正しい智慧のなさ (アヴィドヤー、無明) は、欲望の原因となる。生あるものは無明によって自分自身を欲望のサイクルにむす ぴつけ、さまざまなカルマが発生する。
無明による欲望のせいでカルマが生まれると、その行為は反応を引き出す。どの草 因にも結果が出てくるのだから、因果の法則にしたがって、カルマに応じた報いが生 じる。つまり、カルマの帰結というものは、自分自身のした行為の力が引き寄せた。 それ相応の報いなのである。では、カルマの帰結をどのようにして経験するかという と、その人の生まれ変わりが起こる。カルマ、すなわち「行為」は正しい智慧のなさ の所産であり、再生は因果の法則に応じた反応といえる。カルマは行為で、再生はそ の結果だ。カルマは種で、再生はその実だ。生まれ変わりによってカルマが生まれ、 ふたたびカルマが生まれ変わりの道筋をつける。こうして、生命の流転は終わりなく 続いていく。
因果の原則によれば、結果は原因になり、さらにそれが別の結果を生む。わたした ちの人生は無限の過去から未来へ続く終わりのない円環であり、これは無明が消滅し過去世は、現在の状況を決めるただひとつの因子ではない。カルマが再生を招くの はまちがいないけれども、生まれたあと、そのほかの自然な環境も人間の心身の発達 に影響をおよぼす。カルマ以外に身体、知性、苦楽の営みを左右する影響因子には、 人生の害悪、父親の持つ雰囲気、地理的な環境、精神的な環境がある。これらはほか の自然なシステムと同じく、何かに操作されるわけではない。これらの影響は自動的 なものだ。そのうち、もっとも決定的なものが前世における過去のカルマである。し かし、過去のカルマは、現世のカルマによって断ち切ることができる。だから、カル マを建設的な方向に向かわせるか、破滅に向かわせるかは、個人の努力がもっとも重 要となってくる。実際、カルマ自体は法則で、心の流れに応じて現れるべき時に現れ
ないかぎり続いてゆく。
る。燃える前と消えたあと、火はどこにいるのだろう? 火はどこにも貯められてい ないが、原因と結果がそろったとたん、自然に燃えあがるものだ。 だ。同じように、 カル マもどこにも貯められておらず、心の流れに応じて自然に出現するのである。
簡単にまとめてみよう。無明と行は、両方とも過去世のカルマ(業)によって生ま れるものであり、現世の状態を決定する。現世における識・名色・六処・触・受は、
すべてこれらの行為(業)の報いである。さらに、現世の渇愛(愛)と執着(取)は、 未来の菜の生存(業有)を準備する。結果として、未来世にふたたび生まれ変わり、 老と死などがそれに続く。これが再生の円環、輪廻である。わたしたちはこの一時的 な世界で、いくたびも誕生し、いくたびも死を味わわなければならない――輪廻して いることに気づかずに。その無意識のせいで、わたしたちは同じことを延々と繰り返 す。幾度となく怒りや憎悪、誤った考え、渇愛の渦に巻きとられ、幾度となく出生し
生と出生のサイクルの世界をめぐり続ける。だからわたしたちはブッダが示し
てくれた道を進み、この出生のサイクルから自分を解き放ち、苦悩の湯から永遠に脱 出するため、涅槃に達しなければならないのだ。