「プラティートヤ・サムトパー ダ(因縁生起 いんねんしょうき、略して「縁起」)」
カルマのしくみを知る
ブッダの 教えを理解し。ブッダの説く道を歩みましょう。
人々は、良心に恥じることなく、ブッダの教えとは日々反対の方へ流れている。
魂の数済を得られないために、生と死の輪転の世界をめぐ り。悲嘆の海に沈んでしまっている。国家の情勢、時代、社会状況、とりわけ無智 (無明)のせいで、現代人は意識的にせよ無意識的にせよ、ブッダの教えに背を向けて歩んでいます。
ブッダに帰依し、たどるべき道を理解して、日常の生活でも、ブッダの教えを実践して参りましょう。
そのた めには、バガヴァーン・ブッダ(世尊)の偉大な教え
「プラティートヤ・サムトパー ダ(因縁生起、略して「縁起」)」
を自分のものとして、つねに仏教の真の指針にの っとって行動していく必要があります。 ブッダの教えに頻繁に出てくるのが、カルマ(業、行為)と未来転生です。カルマと 未来転生をきちんと理解しないかぎり、真の仏教を理解するのは難しいのです。
シャーキャ・ムニ・ブッダ(釈迦牟尼世尊)は人々の地位や能力、理解に応じて、さまざまな教えを説きました。対機説法です。
なかでもカルマと未来転生は、もっとも重要なもののひとつにあたります。これからカルマと未来転生の概念を説明していきます。
「因縁の生起(縁起)による未来転生」
未来転生は複雑で不思議な現象だ。仏教の転生を正しく理解するためには、「縁起(プラティートヤ・サムトパー ダ)」の知識がいる。縁起は仏教の背骨である。これは、 カルマ・カルマの結果・転生の原因・激しい苦しみの原因・苦しみの除去について、 明解に説明する法則なのである。縁起の法則は、どの原因によって何が起こるかをはっきりと示し、原因と結果の関係を明らかにする。ブッダはパイサーク月(西暦の四月中旬から五月中旬)の満月の日に悟りに達した(無上正等覚)。そして、その夜の第三更に縁起の智慧が湧いた。したがって、縁起の教えは仏教の鍵となる。ブッダ自身、縁起を知るこ とで法(サンスクリット語でダルマ、パーリ語でダンマ)とブッダを理解できると述 べている。
縁起には、「原因が結果を生みだす (縁って起こる)」とある。行為は原因によって生まれ、その行為が、別の行為の原因を生む。この教えには、こうした原因と結果の つながりが説かれている。煙は火によってもたらされ、果実は植物によってもたらさ れる。これと同じ方式で、目に見えない新しい何かが、人間の行動から出現する。この行動が原因縁、プラティヤヤ)として働くしたがって、ある結果は、ほかの 結果が原因となって生まれる。これと同じことが延々と続く法、つまり無限につな がっていく原因と結果の関係が、縁起というものである。
ブッダによれば、ありとあらゆる行為は原因によって引き起こされる。原因なしに 作られる現象はない。原因を生ずる現象が、また別の原因のもとになる。原因が次々に組み立てられながら、新たな現象が現れてくる。「現象を生ずる原因」が、気づいてはいないけれども実はある原因によって作られたという事実は、非常に不思議だ。 原因というものは、内在的な力で生じたものでもなければ、外在的な力で生じたもの でもない。原因が互いに依存しあって作られたものなのである。これを因縁(ヘート ・プラティヤヤ)という。いかなる現象も原因によって生み出される。簡単に言え ば、「因」は直接的な原因,「縁」は間接的な原因で、直接的な原因を補佐するもので ある。たとえば、植物の成長は種に原因をもとめることができる。しかし、そのすべ てを決めるわけではなくて、成長には種以外の因子。土、水、光、風、空間、季節 なども必要だ。これらを「万物を構成する六つの要素」、すなわち地・水・火・風・ 空・識の六大(または六界)という。これらの要素がなかったら、種から木が育つこ とはできない。だから木の「因」は種で、それ以外の因子(要素)が六大である。こ のように、さまざまな構成要因が組み合わさったとたんに、どんどん新しいものが現 れてくる。仏教的にいえば、一切は持続的な変化の流れとなる。わたしたちが物質と 呼ぶものは小さな原子——極めて細かいである極微(極微塵)の集合体だが、それはあまりに小さすぎて肉眼で見ることはできない。格子窓からしこむ陽の光に浮かんで見える塵の粒子よりも、何千倍も小さくて細かい。ブッダによれば、こうし た極徴は一瞬のうちに消えては生まれてくる。極徴の消滅と発生はあまりに短い時間で行われるため、私たちは二つの出来事の間隔を感じとることはできない。この消滅と発生の連続が、物質を変わらない形に見せている。わたしたちの身体もまた、消滅 と発生を繰り返す極徴の集合体である。別の見方をすれば、こうした持続的な消滅と 発生の移ろいに永続性はない。同じように、精神などの現象のもとになっている極徴 も、持続的な消滅と発生の流れの中にある。これには、発生、安定、消滅の三つの状 値がある。精神の発生と消滅はあっというまに終わってしまうので、この持続時間を 感じとるのは難しい。しかし刻々と消滅する記憶は精神に刷りこまれる。それでも生 まれてから死ぬまで、生命というものの質は変わらないように思えるかもしれない。 しかし実際には、万物は移ろっているのである。赤ん坊として生まれ、成長し、老い ていくのと同じ過程をたどっている。ある生命から別の生命に移り変わるのも同じ過 程であって、これが再生である。これは連続的な変化の過程なのだ。
柱につながれた牛がぐるぐるまわるように、縁起の循環が世界のサイクルをまわっ ていることに気づかない人は、生、老、病、死に苦しむことになる。
サンユッタ・ニカーヤ(相応経典)」で、ブッダは次のように語っている。「おろかさ。(無明)によって迷える凡人の諸行為。(行)がある。迷える凡人の諸行為 によって対象に向かって動く心。(識)、対象に向かって動く心によって精神的・ 物質的現象。(名色)、精神的・物質的現象によって 精神的・物質的現象によって心と対象とを通ずる六つの知 心と対象とを通ずる六つの知覚領域によって心と対象との接触。 (触)、心と対象との接触によって。心による対象の感受。(受)、心による対象の感受 によって敷くことなき欲望。(渇愛)、飽くことなき欲望によって執着”(取)、執 着によって生存。(有)、生存によって出生。(生)、出生によって“老死。があり、 憂い・悲しみ・苦しみ・悩み・悶えが生じてくる。このようにして、このすべての苦 しみのあつまり(苦)が生起する。比丘たちよ、これが「縁りて)起こることとい われるのである」
縁起の理解がもたらす結果は、解脱(ニルヴァーナ)をとおして解放されることである。ブッダの得た三つの悟りのひとつが、あらゆる悩みを打ち砕く方法となる。これには、順 観と連観の二つのステップがある。最初の無明から順に考えていく「順観」では、生 存すること(有、バヴァ)と再び生存すること(再有、ブナル・バヴァ)の原因を述 べていく。これとは反対に、最後から考えていく「逆観」では、こうした生存状態から開放され、生、老、病、死の激しい苦しみを離れて至福の涅槃(ニルヴァーナ)に 違することについて述べている。順観という方法は苦しみが生まれる理法について、
また逆観という方法は苦しみを終わらせる理法について説く。願観は苦痛のサイクルの 広がりを説き、逆観は理法のサイクルの広がりを説く。つまり、順観は原因と結果 のつながりを封じ込めた世界をもたらす 「めぐる因果」を説明し、逆観は原因をなくして解脱に達する方法を説明している。
縁起は十二の段階をへて一周する。
縁起の十二経路を作る種の要素 (十二因縁)のうち、最初は「無明によって行があ る」である。
これは、行(サンスクリット語でサンスカーラ samskara、パーリ語でサンカーラ sankhara)は無明(アヴィドヤー、アヴィジャー)から生じるという意味である。
つまり、無明とは、本当の事実を知らないこと、まちがった理解をしていること、こ の世は苦であるという真理を知らないこと、苦の原因が渇愛だという起源を知らない こと、苦を終わらすには解脱が必要だという真理を知らないこと、解脱にいたるには 八つの正しい道(八正道)をたどることだと知らないこと―すなわち四つの真理 (四型線)を知らないことだ。そして苦しみを楽しみと勘違いしてしまい、無明が苦 の本質なのだと考える智慧がない。したがって、無明とは、本当の知識がないまま、 幻想にすぎない自分自身に執着することを意味する。物質の本当の形は動かしようの ない真理であるのに、幻想の形が真理を覆い隠してしまい、本当の形を知るのを妨げ、 真理を真理ではないものだと、真理ではないものを真理だと考えてしまう。
「正しい方法で正しい事実を身につけること」が、正しい智慧(明、ヴィドヤー)で ある。「本物の真理を知らずにうわべの事実だけを身につけること」が、誤った智慧 (無明)である。パーリ語経典論蔵の「分別論」では、無明とは苦の理解がないこと、 書の原因の理解がないこと、苦を終わらす理解がないこと、苦を終わらせる方法の理 解がないことであり、これら四つの真理を知らないこと、つまりそれらの智慧がないことが無明であると述べている。
無明は苦の終わりへ導いてくれる道を覆い隠してしまうため、人間は身体の五つの (正藏、色・受·行・想・識)の安定性を保つことや、楽が増えるような行 構成要素 動が幸せだと考え、それを繰り返し求める。無明から生じたまちがった考えによって、 五催を養って守り、完全に満足させようとする。同様に、人間は家族や子孫や友人を 楽しませるために行動し、鶏や山羊などの動物を殺すような行為に従事し、他人の金 や財産を盗めば他人もまた盗みをし、策略と力で奪えば他人もまた奪い、邪淫や飲酒 や嘘にふけり、嫉妬がまちがった考えにしがみつかせる。これらの性質はすべて悪徳 であり、もともとは無明によって生じた現在の構成要素 (蘊) から生み出された、悪 い性質(認識形成、行、サンスカーラ)なのである。これを「非福(悪徳)に向か う」性質ともいう。 非福(悪徳)に向かう認識形成(行)は、「悪徳 (アブニャ)」と「作り出すこと (行作、アビサンスカーラ)」からなる。これらは徳のない、不善のカルマである。心 のあり方から一二種類に分けられる。八種は欲望にもとづいた心、そしてこの八種か ら過ちにもとづいた二種の心、誤った信念にもとづいた二種の心が生じる。四種は誤 ったものの見方で、ほかの四種に誤ったものの見方はない。また、四種のものの見方のうち、幸福と満足につちかわれた二種の見方と、そうでない二種の見方がある。後 者のそうでないほうの見方に幸福はなく、忘情がある。また、見方を持たない心も二 つに分かれ、幸福のある二種と、幸福のない二種がある。ここでいう「ものの見方」 「見解」とは、誤った見解、つまり我見(自我の見解、アートマ・ドリシュティ)、常見(永遠不変の見解、シュースヴァタ・ドリシュティ)、断見(虛無主義の見解、ウ ッチェザ・ドリシュティ)のことである。自分自身や他人を生きている霊魂だとみな すと、自我に固執した我見になる。霊魂は決して死滅せず、生命は永続すると思うと、 生命の生滅を信じない常見となる。死後は何も残らず、善悪のカルマも因果もないと 思うと、生命の変転を信じない断見となる。こうした概念とむすびついた見解が生 れた場合、その精神は「誤った見解を持つ心」と呼ばれる。見解がこうした概念とむ すぴつかず、物事をありのままに見るのなら、その精神は見解のない、とらわれてい ない心である。人間がどんな想念、思考活動、話を楽しんでも、八種の心のひとつが、 過ちにもとづいた二種の心を生む。ひとつは、まったく無意識に自然発生した心、も うひとつは必ずなんらかの心のあとに生じる培養された心である。怒ったり、憤慨し たり、腹を立てたり、恐れたり、嫌悪したりしたとき、この過ちをともなう心が生ま れる。誤った信念にもとづいた二種の心は、懐疑主義、疑う心、不安定な心である。
疑う心は、仏教や仏教教団に疑念を抱いたときに生じる。また、根(シーラ)、三 味(サマーディ、心を集中すること、瞑想に没頭すること)、般若 (プラジュニャー、 真実の智慧)に疑念を抱いたときにも生じる。
心が落ち着かずに不安定になってしまうと、軽躁で興奮した心(掉拳 じょうこ、アウダッテ イヤ)が生まれる。心を集中させなければ、この状態の意識が安定する可能性はとて も低く、落着きを失ったままだ。しかし、この「掉拳」という悪い心は、四悪趣(修 羅、畜生、餓鬼、地獄の世界)に生まれ変わる原因にはならない。ほかの一一種の悪 いカルマは、四悪趣にむすびつく原因になる。極楽浄土へ行けるときまで、短い間隔 で転生を繰り返すさまざまな苦しみの源になる。この一二種の悪い心を「非福行」という。
人々は、現世での幸福や繁栄を神々に願うために、さまざまな種類の礼拝を行う。
ほかの人々の喜びのために、布施という徳のある行為をする。星の悪いめぐりから自 分たちを守るために行う有徳の行為もある。殺しや盗みなどの悪い行為をしない。これらの行為はすべて、現在の五蘊に関して善い認識形成(行)を生む役に立つ。「徳 (アニヤ)」と「作り出すこと (アビサンスカーラ)」が合体して、「福行」が生まれる。 善い結果をまねく力のある、善い手段をそなえた感情である。心のあり方にしたがえば、八種の欲界の善、五種の色界の善がある。簡単にいうと、大事なのは、布施(ダ ーナ)、規律を守ること(シーラ)、瞑想または修習(バーヴァナー)である。
これらの人々は、神々に近づくため、また功徳に満ちた教団に感謝できるような人間に なるために布施をする。そして布施を通じて得られる大事な教えに耳を傾ける。生き 物を殺さない。父親と母親を心から敬う。友情の心を保つ。色界と無色界の滑らかさ についてきちんと学んできた人は、冥想に従事する。こうしたすべては、来世の五蘊 に良い結果をもたらす福行や不動行を生む方法である。
サンスカーラ(行)、すなわち認識形成は無明によって生じるが、無明だけが認識 形成を生む原因になるのではない。無明はほかの要素も作るし、同様に、認識形成を生む原因には他のものもある。 ある人間が善い人々や悪い人々と過ごし、正しいことや正しくないこと、因果法則にのっとった考え(如理作意、ヨーニソ・マナシカーラ)や対象に執着する考え(非 理作意、アヨーニソ・マナシカーラ)を開いていたとしても、自分から無明が取り除 かれていれば、こうしたことから認識形成が生じることはない。しかし、そのほかの因子がなくても、無明が存在していれば、必ず認識形成が生じる。だから、無明は認識形成を生み出す主要因子なのである。もちろん、ほかにも原因はあるだろう。
原因と結果が厳密に対応していなければならない、ということはない。たとえば、泥から 潮の花が咲く。したがって、無明を打ち負かす事柄も、無明から生まれることがある といってもまちがいではない。
無明と渇愛は、縁起の重要な鎖である。無明は、苦境をもたらす行動の決定的な原因となる。たとえば、無明をともなう愚かさは、酒におばれるような有害な行動をと らせたりする。また、有愛(生存欲、パヴァ・トリシュナー)は三つの渴愛のひとつ に数えられる——三つ の渇愛とは、欲愛(性欲、カーマ・トリシュナー)、無有愛(存在を否定しようとする欲、ヴィバヴァ・トリシュナー)、有愛である。
一方、良い ところに生まれ変わりたいと渇望する人々は、さまざまな善行をする。だからこのよ うな渇愛は、「解説」にいたる行動の源となる特別なものだ。このように、無明と渴 愛は苦境や解説に向かう行動の原因となるので、重要なものと考えられている。だか らこそ、ブッダは無明や渇愛から始まる縁起の教えを説いた。これは、これら二つのもの――つまり無明と渇愛には原因がないとか、どちらかが先に生じるとかを意味しているのではない。これらは、そのほかの性質を形作っているふつうの要素から生ま れる。人間は涅槃に達するためにこれら二つを滅して、輪廻の苦しみから自分を解き放たなければならない。
簡単にいえば、無明とは、見ること・聞くこと・認識すること。考えることなどの 六つの接触からくる愛着や喜びが苦しみの原因となる、という事実を理解していない ことである。愛着や喜びを幸福の源とみなすこともまた、無明である。解説が苦しみ からの解放だという事実を知らないことが、因果の現象にほかならない。
縁起の連鎖の第二番目は「行によって識がある」である。これは、認識形成(行) が原因となって、認識(ヴィジュナーナ、ヴィンニャーナ)が生じる、という意味だ。 「論蔵」「分別論」には、認識形成から生まれる六つの「識」が述べられている。六つ の識とは、眼識、耳、鼻識、舌識、身識、意識である。ここでいう「識」は、ある感覚を認識する要素という意味である。
眼識は見ること、耳識は開くこと。同様に、鼻識は匂い、舌識は味、身識は接触、 意識は感覚を認識して知ることに関係している。一般に使われる意識と同じ意味だが、三つのタイプ――善,不善、善でも不善でもない無記がある。これらのうち、無記の 意識は、「唯作(作用、クリヤー)」と「異熟 (ヴィパーカ)」の二種に分かれる。四 つの正しい智慧、すなわち四聖諦(苦しみ、苦しみの源、苦しみの停止、そのための道)を知らないと、人間は善の行いと不善の行いを蓄積してしまう。識は人間のカル マに応じた場所に現れる。どのような世界であれ、最初に現れる識は、結生識(ブラティサンディの識)である。この識は、再生や、来世の出現のことだといわれる。
自分の過去世を思い出せる人がいる。彼らは、生まれたときからそうした能力を持 っている。したがって、未来転生があるのは明らかだ。亡くなった縁者に苦しめられたり、 反対に助けられたりする人もいる。その人たちにも転生の記憶がある。過去世を思い 出せる人、透視能力のある人、他人の心が読める人など、そういった能力を持つ人々 も転生現象を経験している。
心と肉体は、生物の二つの柱である。これら二つのうち、心はどのような形も持た ないが、特別な働きをする。心は瞬きよりも短い時間で生減する。生まれた心は消え るが、ほかの心が生まれてくるので川の流れのようになる。したがって、こうした心 のあり方が、人間の心の過程なのである。心の流れは断裂することなく、涅槃に達す るまで流れ続ける。
ある心が滅したあと、ほかの心が木の枝のように四つも五つも出てくるわけではな い。生物は、一個の生物として存在し続け、二個や三個になったりはしない。未来転生は肉体とかかわりがあるのではなく、心のみとかかわる。
生物には、心を宿す特別な場所がある。仏教要義の分析論アビダルマ(パーリ語で アビダンマ)のテキストでは、それを心所(心にあるもの)と心と呼んでいる。心の 中身としての心所は、生まれたり滅したりするものである。血液は心臓の細胞にとど まり続けたりはしない。絶えず片方から入って来て、もう片方から出ていく。しかし 心臓そのものから見れば、つねに心臓の細胞には血液がある。心臓がからっぽになる ことはない。したがって、心所は心の内部にあるものだ。心の流れも、心所とともに 存在する。心臓の細胞は、原因に関係なく血液を出し入れし、血液の状態が悪くなる とだんだん機能しなくなってくる。つまり、「血液中にきちんと意識を住まわせる家」 でいられなくなる。結果として、心臓の性質が失せてしまい、生きる力は止められて しまう。存在場所がなくなるために心の流れは断ち切られ、最後の心が消えたとき。 人間は死んだ状態になる。心臓が機能しなくなったあと、最後の心が消滅して死にい たるまで、正確にどれくらいかかるか判断することはできない。心色は目に見えない ものだからだ。それがあってもなくても、血液には違いは発生しない。流れてゆく心 の中身が壊れたままになってしまうと、肉体は意識がとどまるための基地ではなくな るが、発生しようとする心の力は弱められたとしても、破壊されることはない。結果として、心は基地となるほかの肉体を探す。このように、肉体内でさえぎられてしま った意識を、喪失した心、すなわち死心といい、別の場所で死心から発生した心の流 れを結生心という。
結生が起こる過程と、転起していく過程は、それぞれ別のものだ。アビダルマのテ キストによれば、心が生まれる瞬間を結生という。結生してから死心が生じる前まで の部分を、転起する状態(ブラヴリッティ・アヴァスター、Pravrtti Avastha) という。経典の解説書によれば、結生の瞬間から母親の胎内を出るまでの状態を結生という。
感情、つまりさまざまな心の中身 (心配、チェータシカ)や、業生、時節生、心生などは、それぞれの潜在能力に応じて発生し、発展する。一週間は、黒い泡のよ うな形をしたもので、「設(カララ)」を経て「態 (アルブグ)」と呼ばれる。次の 一週間は「血肉(ペーシー)」という柔らかい筋肉が発達するが、じゅうぶんな硬さ はない。次の一週間は 「肉 (ガナ)」という硬い筋肉が現れる。五週間のうちのも う一週は、手足となる「五つの枝」と呼ばれる四つの筋肉の塊が育つ。最初の五週が 過ぎてからは、くわしい定義はなされていないが、一一週目に眼、耳、鼻、舌ができ ると述べられている。母胎内で食物が拡散し、食物から形態が創られる。さまざまな部位の毛髪や爪は、死ぬまで伸び続ける。 心は生まれたのと同じ場所で消滅する。しかし、それはどこにもいかない。同様に、ある肉体で生まれた心はすべて、その肉体内で消滅する。出生を起こす結生心は、ここではなく別の場所で生まれて新しい存在となるものの最初の心である。しかしそれは、現在の心の流れとむすびついている。人間は、ある世界から別の世界へ行ったり はしない。しかし、この心の流れを通して、人間は天界や地獄へ行くといわれるのである。連鎖が生じるかぎり、心の流れはつねに絶えることなく流れ続けていく。
「業相(カルマ・ニミッタ)」、すなわち「行為の対象」という語は、行為を完遂するために用いた道具、あるいは対象となる人物をさしている。臨終のとき、人間は行為 そのものではなく、行為の対象を思い出すものだ。たとえば、食肉処理者は、殺され た動物、その内、殺すために使った道具、助手などを思い出すだろう。布施をした人 は、食べ物や飲み物、施しを受けた人、布施を手伝ってくれた人を思い出すだろう。
礼拝に従事していた人は、僧院や寺院、チャイトヤ、仏像、供花、供物、線香、灯心 などを思い出すだろう。
そういった事柄が間近に迫ってきたら、目前にあるかのように見えてくる。過去の 行為の対象が、夢のように心に蘇る。そして「趣相 (ガティ・ニミッタ)」——転生行為の対象すなわち、自分のカルマの結果として次に生まれ変わる場所を示す兆候が 現れる。地獄へ生まれ変わる人であれば、炎が燃えさかるおそろしい光景が浮かぶか もしれない。亡者(限鬼)に生まれ変わる人であれば、亡者(餓鬼)の棲家が浮かぶ かもしれない。こうした光景は夢のように心に見えてくる。死に顔した人の眼前に浮かぶこともあるだろう。意識の流れは死の瞬間にも存在し、縁として働くこれら三種 類のカルマの対象のうち、どれかひとつを心に抱いて人間は死ぬ。
根底に無明が存在するために、人間が行くべき新しい世界の扉は閉じられたままだ。渇愛が源にある場合、心の流れは対象へ向かう。そして、感覚のある生物の心の流れ が対象へ向かうとき、身体の最後のカルマが発生して中断したあとに生じたカルマに、 カルマの対象の支持力が働く。その結果、人間が過去のカルマに応じて生まれ変わっ た場所に、まったく同じカルマが発生する。これが、生物の再生であり、心の発生と 同時に始まる次の世である。次の出生をもたらす結生心が生まれたとたん、あるいは そのあと、引き続いてカルマの種類に応じた身体ができ始める。新しい身体は、過去 の身体とまったく関係がない。現在の心と過去の心の流れがつながっているだけである。結生心、つまり新たな世界で最初に生まれた心は、「有分心(パヴァンガ・チッ タ)」という新たな心が生じるまで、織り返し発生する。有分心は自然な心と同じもので、生物の基本的な心として知られる。身体ができたあと、感覚器官はさまざまな 対象物などと接触し、善や不得が作られ、それによって眼識などの識が発生する。善 や不善を作ることや心の流れは、それが終了しなければ来世に入れない。したがって、 生物それぞれに出生(生存)をもたらすものは、カルマなのである。しかし無明と渇 愛を欠いたカルマには、次の生存をもたらす作用はない。同様に、カルマを欠いた無明と渴愛にも、そうした生存をもたらす作用はない。修行の最高位に達した阿羅漢が、カルマがあるのに生まれ変わりをしないのは、ここに理由がある。
実際のところ、人間という存在はない。精神的現象,物質的現象(名色)を与えて昔からそう書い慣わしているだけである。生まれてから死ぬまで滅びない人間というものはない。存在しているのは心、心の中身、形の流れのみである。ところが、心は 流れにすぎないという事実を正しく理解しておらず、また、心の流れにはっきりした 形がないうえ、心は誤った考えを抱いたりするので、人間はときどきならず「生きて いる」と考える。電流を例にしてみるとわかりやすいだろう。電球の光はずっとつい ているものだと思っているが、ついたり消えたりしているものだということがわから ないかぎり、そのプロセスは理解 できない。産みだす力を持った電流は、無数の波となってつねに流れている先に行った波が消えれば、間髪をおかずに次の波が現れる。後のひとつひとつに電力がある。このプロセスは非常に速いため、人間の眼はすっかり幻感されてしまい、先がずっとついているように思えるのだ。したがって、心、 心の流れ、形の流れ以外の人間というものは存在しない。だから人間が再生するのかどうか、輪廻があるのかどうか、新たに生まれたものは前世に存在していたものと同 一かどうかといった疑問は、簡単に氷解するだろう。精神的現象・物質的現象(名色)に関する誤った概念が、本当の姿と真実を覆い隠してしまう。電流に関する誤った概念が真実を覆い隠してしまうのと、同じことなのだ。
新たな生命に生まれる識の内容は三十二種類で、いずれも結生の瞬間から、生涯を終 えて死ぬまでの活動の結果として発生する。結生の瞬間に生じるのは、四悪趣への結生心(一種) のほか、神々と人間の世界である天道と人間道、すなわち欲善趣に結生 する心(九種)、色界への結生心(五種)、無色界への結生心(四種)で、合計一九種 である。欲善圏への結生心の九種は、欲界善と呼ばれる八種の有徳の行為から生まれ る。縁起の教えでは、煩惱障や業障という項目を立て、原因と結果の関係を三つに分けて説明している。つまり、三十二種の現世の識という、業障から生じた結果は「作ること(行)」に編を発していると述べているのである。認識は作ることから生まれる。 この認識において、結生心と精神的現象,物質的現象(名色)という特徴が一緒に生まれる。したがって、認識と精神的現象・物質的現象(名色)は、結生した瞬間に一 緒に生まれる。認識と精神的現象・物質的現象(名色)には、六処という六つの感覚 器官だけでなく、接触と感受の働きがある。したがって、行為を作ることから生まれ たそれぞれの認識において、精神的現象,物質的現象(名色)、六つの感覚器官(六 処)、接触と感受が生まれる。これらはまた、結果をもたらすものでもある(果法)。 これらの果法のうち、認識と名色が感覚器官(処)の直接的な原因であり、順番に、 感覚器官(処)が接触の直接的な原因となり、接触が感受の直接的な原因となる。 れが、認識が精神的現象・物質的現象(名色)の原因であり、精神的現象,物質的現 東(名色)が感覚器官(処)の原因であるというブッダの教えの意味である。
精神的現象,物質的現象(名色)が生まれる原因は認識である。パーリ語経典論蔵 の「分別論」によれば、精神的現象(名)とは、五蘊のうちの二つの感覚的要素,知 覚的要素・作ることの要素にあたり、物質的現象(色)とは、四つの基本要素を生ま れながらに備えた物質的要素にあたるという。この二種からなる名色を発生させるの が認識である。どの人間にも、精神的現象の身体(名身)と、物質的現象の身体(色 身)という二種の身体がある。名身は眼で見ることはできず、心と心の流れからなる。 心と心の流れが名身と呼ばれる理由は、眼で見ることもできないし、手で触ることもできないからである。つまり、その精神的現象をとおしてしか知ることができない。 (名)は五蘊にもとづいて四種に分けられる。「受蘊」「想蘊」の感覚的集積物、「識 蔵」の知覚的集積物、「行」の認識形成の集積物である。識蘊産を除いた三つの墓は、 認識の結果として現れる。同様に、(色)も二種——基本的物質要素(大色)と依存 的物質要素(依止色、ウパーダーヤの色)——に分けられる。地、火、風、水 熱、気体、液体)が四種の基本的物質要素である。これら四大要素が合わさったもの に付随するのが、色、香り、味などの依存的物質要素で二四種ある。すべての物質要 素を合わせると二八種になる。
色身(物質の身体)の存在は、名身(精神の身体)によって証明される。色身は、 名身がなければ意味を持たない。したがって、これら二つの身体のうち、要となるの は名身である。名身の四蘊のうち、筆頭に来るのは識蘊で、残りの三蘊はその基盤と なる。まず、過去の原因 原因の結果として認識要素が生まれる過程で名称が生まれ、 らの名称にもとづいて認識要素が表現される。物質的現象(色)のない世界以外、そ れぞれの世界に応じて識藤の安定と発展をはかる物質的現象 (色)は、その認識自体 によって生み出される。たとえば木の存在を考えてみよう。枝、小枝、葉、花は、木 が出現する前には存在しない。これと同じことが認識の産物にもいえる。眼識などの六種の認識が発展することによって、さまざまな認識の産物が現れるのである。物や 人を見ることは、眼識の現れである。物や人が美しければ、見ている人は、その光景 から満足と喜びを得る。そして、同じ物や人、あるいは同じような物や人を手に入れ たい、見たいという願望が湧いてくる。また、嫉妬のような感情が湧いたり、自己中 心的な感情も湧いたりしてくる。このような感情を悪心 (妬み、嫉妬)という。また、 差別――優劣の感情が現れることもあるし、誤った考えが現れることもある。見た物 や人が横かったり嫌なものだったりしたら、嫌悪の感情が生まれる。恐怖や怒りなど が湧いてくる。愛すべきいとしいものだと感じたら、親しみ、信頼、献身などが湧い てくる。眼識の対象となった物や人に応じて、いろいろな認識現象が現れる。このよ うに、多種多様な認識現象や特性が、耳識などに賦活された五種の感覚器官から生ま れる。同じように、名称も認識が源になって生まれる。
物質的現象は認識から生み出される。生まれ方によって四種類に分けられる。卵から出生するもの(卵生)、(2)子宮内の胎盤から出生するもの(胎生)、③汗などの老 廃物から出生するもの(湿生)、①自ら出生するもの―つまり前の三種とは異なり 忽然と現れるもの(化生)。同様に、感覚のある生物が生まれる世界は五種類あり、
それぞれ①地獄界(奈落)、畜生界(傍生、動物)、(3)饿鬼界(亡者)、②人間界(人間の住む場所)、(⑤天界(神が住む場所)である (訳注 修羅 (阿修羅)を除いた 五道の説、修羅を含める六道の説がある」。
それぞれの出生形式や世界によって、多種多様な物質的現象(色)が創られる。物 質的現象は集合方式で発生する。形態を発生させる物質の集まりを、色聚(ルーバ・ カラーバ)という。地(固体)、水(液体)、火(熱)、風(気体)、色、香り、味、避 養素の八種の要素があり、これらが互いに寄り集まって、ひとつの塊(ビング)を作 る。この塊を純八集という。どの色聚もこれら八種の要素でできている。命色、眼浄 色などが、九番目、一〇番目、一二番目の色となる。これらはすべて非常に微小なも のだが、その最小単位が「色」である。微小な原子や分子でさえ、色聚よりかなり大 きい。色を生じさせる四つの原因は、カルマ(業・行為)、心(認識)、時節(季節)、 食(食べ物)である。感覚のある生物の身体は、さまざまな色でできている。感覚の ある生物の外観を作るのは時節(季節または環境)だが、生物の場合は、四種類の原 因それぞれから生じる形態(色)がある。四種類の原因のうち、認識が中心的な役割 を果たすが、それ自体に産生する力はない。過去のカルマから生じる結生心がなけれ ばならない。結果を受ける心(異熟心)のため、欲望からは離れたけれども物質的制 約が残る色界での生存、すなわち色有では精神的現象(名)が発生する。想念のない生存(無想有)には、結果を受ける心(異熟心)がない。そこでは、過去のカルマのため物質的現象(色)だけが産生される。
精神的現象・物質的現象(名色)は、 認識により、そのほかの生存で産生 される。したがって、認識(識)により精神的現象(名色)が生まれる」という言葉は、三つのアプローチで理解しなけ ればならない。過去のさんマによる生心のために卵生、温生、動生のいずれかで来 また生物には、十集、十、十集という三つの色配がある。なかには性十集 のない生物もある。十集のないものは性的能力のない者と呼ばれる。認識を持つ形 の、またニー三の色からなる線は、という。それが育っていくにつれて、 心の産物や時節の産物も加えられていく。まず、この夏は母親の胎内に現れる。こ れが最初で、このが育って人間となる。やがて他という泡の塊が作られ、筋肉が できてくる。この筋肉の塊から、五つの肢節が現れる。その後、髪や皮膚や爪が作ら れる。このことは、「サンユッタ・ニカーヤ (相応部経典)」の第十篇「ヤッカについての集成」に述べられている。マスタードオイルの滴よりも小さい凝滑は、一週間 たつと「皰」に変わる。そしてそれが一週間たつと、血肉に変わる。また一週間たつと、 肉に変わる。さらにそのまま一週間 たつと、肉の塊に変わる。もしも塊が薄い 前に願われていると、ニワトリの卵のような具合になる。五週目に、頭と両脚になる部分の塊にふくらみができる。一一週ごろに、胎児には眼などの 器官ができてくる。 結生心が遮断される前に、過去のカルマのため、時節による形態(時節色)が作られ る。結生心の次に生まれる心とともに、心の産物(心生色)が生み出される。
欲界の生存は一一種で、それぞれ地獄界、畜生界、鬼界、阿修羅界、人間界、四 天、切称天、夜樂天、兜率天、紫変化天、他心自天である。これらの生存の うち、湿生の生物には、七つの色の集まり、眼、耳、鼻、触、味がある。心ができた あと、時節色と色が加えられ、人間は完全な形態となる。化生の存在が欲界で完全 な形になるには、十種の集まり、眼、耳、鼻、味、触が作られる。そののち、色聚、 心、時節、食が加えられる。しかし、これらの生存において、最初の認識がなければ 精神的現象,物質的現象(名色)は発生できない。ゆえに、認識が原因となって精神 的現象,物質的現象(名色)が生まれるといわれるのである。もしも認識が阻止され たら、名色が生まれる可能性はない。生物が転生を重ねながらさまざまな苦楽にさら される根本原因は、認識にある。このために存在は、心が宿る住処としての身体をも たねばならず、身体は心にコントロールされ、指図をされる。そして、再生を決定づ ける欲望の影響を受け、さまざまな行動をするにいたる。
六つの知覚領域(六)は、名色が原因となって生まれる。色(物質)が原因となって生じる知覚域のシステムとともに、植生のときに心基(心臓、フリダヤ・ヴァストゥ)の内にある血液の助けを借りて、結生心が生まれる。六処のうちの意も、 同じ原因により生まれる。これはサポートの役割を果たす(よりどころとなる)物質 である。同様の理由から、眼・耳・鼻・舌・身も、サポート物質である。眼、耳、鼻、 味の識が生じるのもまた、意である。眼、色などに加え、思考によって物事を 知るもうひとつの意し、心臓内の血液により生じる。身体の服や色などの小さな物質 は、地・水・火・風の四つの基本要素の助けを借りて作られる。したがって、六処の うちの五つの知覚領域・耳・鼻・舌・身は、物質要素から生み出される。カル マ「行為)の産物である限色や耳色などは、命色の助けを得て、絶えず生まれてくる。 同様に、五つの知覚領域も、ジーヴィタ(生命)という寿命の色により発生する。さ らに、これら五つの知覚領域は、食という色の恩恵も受けている。
「分別論」に述べられているように、服・耳・鼻・舌・心・意の六処は、通常、名色 よって発生する六つの感覚器官(六)として知られている。眼で対象物を見て、 識という う認識を発生させる場所が、限処である。耳で対象物を聞いて、耳識という を発生させる場所が、耳処である。
同様に、舌で対棄物を味わい、舌識を発生させる場所が舌処である。鼻処でも同様のことが起こる。体内や体外で、粗い柔らかい、熱い冷たいなどの身体認識をす るのが身処である。知覚したり言葉を理解したりする認識が、意処である。処として 知られる服などの器官は、支持的な役割を果たし、心や心の中身を生むのを助け、迷 いの世界の存続を長引かせる。このため、五つの知覚領域は処と呼ばれる。名色がな ければ処はない。名色という原因により、欲界(欲望のある世界、カーマ・ローカ) では六処すべてが生じる。しかし、色界(物質的制約のある世界、ルーパ・ローカ) では、眼・耳・意の三つの処しか生じない。一方、無色界(物質的制約もない世界、 アルーパ・ローカ)では、意処ひとつしか生じない。無色界の生存では、名色のうち、 精神的要素である名のみが意処の原因となる。六処のうち、また眼処などで認識する 二八種類の物質のうち、認識が原因で発生するのは五つの処だけである。知覚領域 (処)もまた、名色が原因で発生する。処を考える場合、名色によって認識が生じる。 これが、六処が名色によって生じる由縁である。母胎から生まれる生物では、身処と 意処が結生と同時に生まれる。結生とと 結生とともにできた小さな色の塊が、だんだん大きく なる。それが発育していくにしたがい、眼、耳、鼻、舌などの器官もできてくる。そ ういった器官が発生したあと、眼処・耳処・鼻処・舌処という四つの処が、それぞれ の場所にできる。これらの処を宿す(支持する)場所がない場合、すなわち眼などがない場合、処は生まれてこない。これが、色(物質的要素)が処を生む原因だという 所以である。このように、順処などは、結生と同時に生まれた物質的要素の発育とともにできてくる。物質的要素の拡張にともない、処は全身に形成される。こうして、 物質的要素によって身処ができる。身体はこれらの物質に関連しているが、身体の発 背はそれぞれの物質によるのである。湿生と化生の生物の場合、すべての処が結生の ときにできる。その後、それらが生きてい れらが生きているあいだ、処は繰り返し発生する。五二種 の心の中身(心所、チェータシカ)は、日常的にこれらの六処に生じる精神的要素で ある。六処は形や音 (言葉) を受け取る媒体として働くので、「門」や「入口」とも 呼ばれる。身体は、六つの門(入口)を持つ家なのだ。身体の構成において、六つの 感覚器官は重要な役割を果たしている。これらの処がなければ、身体にはいかなる重 要性も統一性もない。しかし、六処を別々に理解せず、単一の器官だと考えてしまっ たら、さまざまな色からなる「身体」という形ができて、それを「わたし」だとか 「あなた」だとかの感情をもたらす「有身見」 (自我)をとおして受け止めるようにな る。さらに有身見は人間を惑わせて世界をさまよわせ、涅槃(解説)に向かうのを妨 げる。
接触(触)は六処によって生じる。もっと正確には、六種類の触が六処によって生じる。すなわち、眼、耳、鼻、舌触・身触・意触である。実は、外界の物事を 受け入れる六つの通り道(六根または六内処)のことしか述べなかったが、処は一二種類ある。そのほかの処とは、外界から内部へ入ってくる認識の対象(境)のことで、 色・声・香・味・触・法がそれにあたり、六境または六外処という。この六境と大根 (内外の処)を統合して考える。接触は感覚器官の「根」だけではおこりえず、対象 物の「境」が必要となってくる。「眼」と「対象物」がそろったところで「眼識」と いう認識が生まれ、「眼」「対象物」「眼識」が組み合わさると「接触」 が生まれる。 触には感覚器官と感覚対象物の両方が必要なので、これら二種類の処が触の原因と考 えねばならない。どのような媒体(処)にも、それぞれがあつかう対象を認識する性 買がある。たとえば、マッチ棒とマッチ箱には火を生み出す力がある。それぞれをこ すり合わせればよい。このように、組み合わせがそろえば、媒体にはおのずから認識 が生じる。「眼」という器官と「形態」という対象が組み合わされると、眼識が生ま れ、わたしたちは対象物のイメージをつかむ。この場合、眼と対象と認識がそろうと ともに、心に産物が生まれて、眼とのコンタクト (眼触) が成立する。肌触とは、眼職をサポートする器官である眼、対象となる物体、それらと眼識が不可分につながり あって生まれる、一種の心の産物だといえる。しかし、これら三つの組み合わせで触が生じるとはいえ、ただ組み合わせただけでは、完全な触は生じない。生物の器官で ある服が葉で、対象物を「きちんと把握」したときに、「見えた」という触が生じ るのである。これが、前が処によって生じるという由縁である。
心の感受作用(受)は触によって生じる。「分別産」は、受を六種類に分けて述べ ている。肌触によって生じる受、耳触によって生じる受、鼻触によって生じる受、意 触によって生じる受、身触によって生じる受、舌触によって生じる受である。何かを 味わうと、それとの接触)によって、楽受苦受・どちらでもない不苦不樂受、 これら三つのうちのどれかが生じる。認識を通じて知る物事または対象を、アーラン パナ(所縁、基本となる情報)という。どのような物事、物質、対象であっても、三 種類良い、悪い、どちらでもない(中間) ――に分類できる。これがアーランパ ナ・ウサ(基本となる味)である。接触が基本となる味を生み出したり分泌したりす るが、まったく同じものは経験できない。接触によって基本となる味が賦活されたり、 味を感じたりしたとき、それが同一のものだと認識する性質が生まれ、そうした性質 が「その対象への感受作用」となる。これは心の産物で、認識とも接触とも異なる。 このように、受(ヴェーダナー)という語により、楽・苦不苦不楽の感受が理解さ れる。
すてきですばらしいもの に出会えば、楽しいと感じる。強くていやなものに出会えば、苦しいと感じる。一方、良くも悪くもないもの、すてきでもいやでもないものに 出会えば、楽しさも苦しさも感じない。不苦不楽受はとらえがたく、隠された性質、 あるいは現れない性質である。人間が有分(パヴァンガ)という心、作意という注意 力(認識しようとする力、アーヴァルジャナ、マナシカーラ)、自性(スヴァパーツ 7)という本質があると思える物質(対象)、これらをあわせて考えた場合、心の 識が生まれる。接触は、人間が三つの因子主要な注意、想像をかきたてる物質 (対象)、熟考による知識――の組み合わせで考えた「もの」に出会ったときに生じる。 三種類の経験をして苦楽の現象に直面すると、「受」が生じる。だがそれは、この世 の存在ではない。人間によって作られたものでもない。原因なくして自然に発生した ものでもない。これらは、いくつかの原因による結果なのだ。これは原因と結果の原 則を示している。原因とされる心・想像をかきたてる物質(対象)・精神的な特性 (現象)は、熟考によって知ることができ、そこから心の認識が生じる。注意,現 泉・熟考による知識―これら三つの特性の組み合わせが、「触」を生み出す。ファ ダは、物質(対象)は原因としての接触と出会い、そしてこの経験が心の感受作用を 生む、と教えた。
渇愛は受によって生じる。「分別論」に述べられているように、色・声、香、味, 触・法に対する渇愛があり、これらはすべて心の感受作用(受)が原因で生じる。物 質に対する愛、すなわち色愛は、眼で見て心で感じた物体のせいで生まれ 愛は、耳で聞いて心で感じた音のせいで生まれる。鼻で嗅いで心で感じた匂いから は、香愛が生じる。舌と心で感じた味からは、味愛が生じる。身体と心で感じた接触 からは、触愛が生じる。精神的なもの(法)に対する愛は、心との接触のせいで生じ る。法を味わう経験によって心に感受作用が生まれ、それが渇愛をもたらす。これは 法愛といわれる。また、愛は三つの種類にも分けられる。性的な欲望(カーマ・ト リシュナー)、生存に対する欲望(有愛、パーヴァ・トリシュナー)、存在したくない という欲望(無有愛、ブラバーヴァ・トリシュナー)である。物質への欲望は、眼に したものが性的な感受性でもって認識されたとき、そのまま性欲になる。同じものが 永遠と解釈され、水遠不変の見解で認識されると、生存欲になる。反対に、滅び・断 絶・絶などの見解で解釈され、認識されると、非生存欲が生じる。断絶の見解への 愛着が、非生存への渇愛である。渇愛にも規則性があり、性欲・生存欲・非生存欲は、 一八種の愛で構成されている。実際には、精神的なもの一八種、外的なもの一八種 で、全部で三六種となる。さらに、これらは時間によっても分けられる。過去における三六種、現在における三六種、未来における三六種で、すべてを合わせると一〇八 種となる。とはい。 とはいえ重要なものは、認識対象(所檬, アーランバナ) にかかわる六種 と、性欲にかかわる三種の愛である。
どのような生物であっても、楽しいものを求めて行動するのがふつうだ。悲しみや苦しみの感覚は不快だし、困るし、恐怖をまねく。生物はトラブルや恐怖を取り除こ うと努力する。幸せや楽しみに惹きつけられ、トラブルに悩まされているときは、幸 せや楽しみに来てほしいと願う。幸せや楽しみでなければ、平穏を願う。人間がこう いった三種質の感情にとらわれたとき、渇愛の発生にむすびつく。これが、心の感受 作用から渇愛が生じる由縁である。
次に生じるのは、執着である。執着 (取、ウパーダーナ)の意味は、強い親和性だ。 渇愛によって生じる執着は、あたかもほどけない結び目のようになる。執着を意味す る「ウパーダーナ」の字義どおりの意味は、「取って放さないこと」。渴愛(トリシュ ナー)はまだ単純で軽い段階だが、取(ウパーダーナ)は強烈な渇愛となる。「分別 論」によれば、四種類の執着がある。性欲への執着 (欲取)、誤った見解への執着 かいこんじゅ (見取)、誤った信条への執着 (戒禁取)、自分自身への執着(我語取)が、渴愛によ って生じる。心に浮かんだなんらかの現象(認識)をがっちりつかんでしまうと、それが執着になる。取って放さない欲望の代表が、性への欲望(カーマ)だ。こうした 性的欲求には、性を求める心(愛欲)、性への妄執(欲貪)、欲喜、性への渴望(欲 愛)、性への愛着(欲親)、強い情欲(熱情)、性への感湯(欲迷)、そして性に従事 することなどがあり、すべてが執着である。性に執着する人々は、ひたすら性の快楽 を追い求める。
また、見解への執着、信条への執着、自我への仗着は三種類とも形式や対象に かかわるものだが――ダルマ (法)についての見解と同様である。理解すること、知 ること、信じることは、思(ドリシュティ)と呼ばれる。見解には、正しい見解と誤 った見解の二種類がある。人が対象、物体、現象をきちんと、あるがままに理解すれ ば、それは正しい見解となる。そして誤った見解とは、正しい見解のような方法で対 果や物体を見ないことである。まちがった話に誤った見解を抱けば、見解への執着が 生まれる。誤った概念と見解のため、人は「自分」とか「他人」とかについて話し出 し、実際は存在せず単なる思い込みにすぎないものにしたがって行動する。人間の心 の奥深くまで「自分」「他人」の考えが植えつけられると、それが自我への執着にな る。縁起の教義には、執着は渇愛から生まれると述べられている。執着は生まれたと たんにその人と同化するので、切り離せない関係になってしまう。誤った見解の代表は、有見体と自我が存在するという見解)である。この見解を捨て去らなけれ は、ほかの誤った見解を捨てることはできない。ほかの誤った見解のすべては、この我見から枝分かれして生じた産物なのである。この世にはたくさんの誤った見解があ る。地方二見経には、六二種の見解が述べられているが、そのうちの二つに牛戒と 陶成というものがある。誰かの性質と振舞いが牛を見習ったものであれば、それは牛 成にあたり、大を見習ったものであれば、それは狗戒にあたる。誤った信条への執着 (戒禁取)は、そういった性質や振舞いを守る人々に生じる。我語取と戒禁取のほか に、もうひとつ見取という見解への執着がある。自分の見解と主義だけが正しく、ほ かの人のは正しくないと考えるものだ。一般的にいって、もろもろの誤った見解は、 身体の構成要素である五蘊を愛し、身体の快楽を追い求める人々に生じる。これが、 見解への執着が渇愛から生じるという理由である。
そして、執着心から生存(有)が生じる。『分別論』には、二種類の生存一一一行為の生存(業有)と発生の生存(生有)が述べられている。業有は、福行,非福行,不動 行からなる。生有は、欲有・色有・無色有·想有,無想有,非想非非想有,一直有 有・五蘊有からなる。これらすべての生存は、生物が執着し、その執着がしだい に大きくなり、ほかの物質が生まれ、同様の理由からしだいに大きなっていくときに生じる。殺すなどの行為により一○種の悪の報いが生じ、また、一〇種の善の報いが生じる。こうした善悪の報いが原因となって、これらの報いに応じた世界で身体の 構成要素である薀が生まれる。これらのうち、十悪(非福)と十善(福)と罪が、業 有と呼ばれる。これらの行為により生じた薀が、生有と呼ばれる。十一種類の欲の世 界————四つの悪趣、ひとつの人間界、六つの天界——での生存を欲有という。一六種 の物質的の残る世界での生存を色有という。四種類の物質的制約から離れた世 界での生存を無色有という。一一種類の欲有、一種類の想有を除いた、そのほか―― 「五種の色界三種無色界、合計二九種類の世界での生存を想有という。これ らの世界は、いずれも生物が誕生する世界である。また、想念のない世界での生存を 無想有という。無色界の最高の場所、有頂天に生まれた生存を、非想非非想有という。 ヴォーカーラという語も、スカンダと同じく「蔵」を意味する。無想有には、五蘊の うちの物質的要素である色しかない。したがって、そこでの生存は一直有と呼ばれ には、五道のうちの精神的要素である四つの継しかない。したがって、そ この生存を有 直という。それら以外の世界での生存を、五有という。生物の五 蔵のうち、カルマ(來 (集・行為)から生じる要素と、そのほかの原因で生じる要素があ る。ここでべてい へている「生存する世界——出生する場所」とは、カルマの結果として生まれる世界のことである。したがって、その世界での庭の発生は、カルマが原因で ある。ゆえに、執着によって生存が生まれると言うときは、「カルマが原因となって生じる蘊の生存」という意味になる。さまざまな執着に影響されて、人間というもの は多種多様な行為をする。人間は四種類の執着に突き動かされて、ありとあらゆる種 類の行為———良いことや悪いこと、善や不善をするものなのだ。性欲のある生存 (欲有)は、性欲のある生存を生む行為によって生じる。物質的なものすべてが清浄 なものよりなる生存・色有は、色有を生む行為によって生じる。物質的なものを超え た精神的要素のみからなる生存・無色有は、無色有を生む行為によって生じる。想有 は、これら三つの分類のサブグループにあたる。このように、生存は、執着がもたら す行為が原因となって生み出される。つまり、生存は執着によって生じる。
同様に、出生をもたらすものは生存である。「出生」とは、生物を実際に作り出す ことだと考えればよい。胎内で長くすこし、そして蓮と処の発育によってできた身体 とともに生まれることだ。「分別論」によれば、出生(パーリ語でジャーティ)は、 それぞれに応じた生存状態における生物の最初の誕生、もしくは、それらの生存状態 における蔵の発生を意味する。原因となる生存 (有)により、出生は、生存の基盤を のものとして生じる。したがって、ここでの出生は、生起有と考えることはできない。
業有と生有二種類の有(生存)のうち、出生の原因として働くのは有である。だ から、「出生の原因が生存だ」という場合、わたしたちは二種類の有を念頭に置いて いるわけではなく、素有のみを問題にしているのである。執着に影響されて善と不 の行為がなされ、これらの行為が生物の出生と再生をまねく。行為の程度と性質に応 して、欲界などに生まれるのだ。この種の出生を、「生(ジャーティ)」という。あら ゆる人間が、同じレベルの怒りや憎悪、誤った考え、強い執着、嫉妬、自我、あるい は怒りのない心、友情、慈悲、人々の楽を喜ぶ心 (パーリ語でムディター)、智慧を もっているわけではない。こういった性質には程度の差があり、強かったりそれほど でもなかったりする。精神的な性質は平等ではないため、寿命、体力、健康、財産、 苦楽の感情は、すべて人によって異なる。同じ両親から生まれた子どものあいだにも、 章、行為、性向、能力、振る舞い、品行などの点で違いがあるのは、ごくふつうのこ とだ。ここから、こうした多様性や差異が過去世の行為によるものだということがわ かる。わたしたちの心は強力ではかりしれない。そのはかりしれない心によって、行 為が生まれ、それらの行為に応じて生存が始まる。行為の種類や程度が生存のタイプ を決め、それにしたがって生物は生まれる。これが、出生は生存によるといわれる理 由である。
老いや死などのさまざまな苦しみが、出生によって生まれる。衰えて、足腰が弱り、 髪が白くなり、皮膚にしわが刻まれ、死期が迫り、五感が鈍くなり、それらがどんど ん深まっていくのが、老いというものだ。老いがあるところには、死がある。老いと 死は、五蘊が衰え、憂いなどが生まれることにより、生存が変化することを意味して いる。死によって、わたしたちは住む世界を変え、別のものとなり、見なくなり、消 えうせるという性質を獲得する。衰えて死ぬことにより、出生がもたらす老いと死を 獲得する。三種類の生存——欲有・色有・無色有——のどれかに生まれた生物はすべ て、老いと死の両方からまぬがれることはできない。五種類の苦痛———憂悲苦。 悩・問——については、激しく苦しまねばならないものもいれば、それほどでもない ものもいる。しかし、色界と無色界に生まれた生物は、こうした苦痛にみまわれるこ とはない。あらゆる生物に課された老死やそのほかの苦しみにさらされる理由は、出 生である。出生がなければ、必然的な苦しみは生じない。したがって、老死は出生が 原因となって起こる。縁起の教えは無明から始まる。しかし、無明は原因なしに、自 然に発生するものではない。また、無明がすべてに先立って生じるという事実もない。 さらにいえば、老死が縁起の終着点でもない。生物が生まれたあと、身体の器官の せいで無明が生じるのはまちがいない。無明が生まれてカルマ (行為)が蓄積され、カルマ(行為)によって再生が確実となる。この原因と結果の流れは、無明と執着が 滅ぼされないかぎり延々と続く。その地点に到達しないかぎり、原因と結果の流れは 終わらないのである。
出生の状態とむすびついている。無明と行は、過去の生存(有)、認識、 名色、六処、接触、感受作用、渴愛、執着とむすびついている。生存は、現在の生存 となすびついている(関係している)。そして生・老・死は、来るべき(来世の)生存とむすびついている。
縁起の連鎖のうち、あるものは煩悩(クレーシャ、漏ともいう)であり、あるものはカルマ(業・行為)であり、あるものは果報(報い)である。生物は煩悩によって カルマ(業・行為)をするようにむすびつけられ、そのカルマによって報いがもたらされる。こうしたもろもろの流れの終点が出発点にもどったとき、この流れを「めぐる」という。細かく見ていけば、流れは煩悩から始まり、煩悩がカルマ(業・行為)と報い(結果)を生み出し、最終的に出発点に戻る――こうして 「めぐる因果」が形 作られる。このサイクルは、正しい智慧にいたる道をたどることによって煩悩が滅ぼされないかぎり、ずっと存在し続ける。執着は煩悩である。業有と行はカルマである。 識、名色、六処、触,受・生有·生·老・死などは、果報 (結果として受ける報い)である。煩悩、カルマ、果報は、絶え間なく生じる。このため、これらはめぐる流れ ( 輪転、ヴェリッタ)といわれる。それぞれ、煩悩の絶え間ない流れ(クレーシャ・ヴ リッタ)、業の絶え間ない流れ(カルマ・ヴリッタ)、報いすなわち苦の絶え間ない流れ(ヴィパーカ・ヴェリッタ)である。縁起支は原因と結果(報い)の流れである。こ の深遠な縁起の法則について、ふつうの人々がきちんと理解できるように、ブッダは さまざまな方法で説いた——最初から最後まで順番に説いたり、反対に最後から最初 へさかのぼってみたり、ときには三つの三味(トリ・サマーディ) や rashichar の方法にあてはめてみたりした。 縁起支の一二のつながりのうち、最初の二つ——無明と行——は過去世と関連しており、最後の二つ——生と老死は来世と関連している。そのあいだにはさまれた、残りの八つのつながり識・名色・六処・触・受・愛・取・有——は現世と関連し ている。したがって、縁起が一巡するうちにも、過去・現在・未来の三つの世界が交錯しているのである。